SCMパッケージソフト 開発勉強日記です。
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ドラッカーの過去の著作から上田惇生さんとドラッカーが編集した初めて読むドラッカーシリーズの【社会編】イノベーターの条件、副題は「社会の絆をいかに創造するか」となっている。
過去出版された【自己実現編】、【マネジメント編】と比べて、この【社会編】は、非常に重い内容となっている。政治の問題、教育の問題などがこの本の中心になっている。個人や企業の話ではなく、世界政治の問題となると、軽い気持ちでは読めない。
Part1 激動の転換期にある社会
Part1の初めの1章、2章はそれぞれ1942年、1939年に書かれたものである。にもかかわらずファシズム、マルクス主義について、その失敗の理由を解説してある。ナチスドイツとソ連は健在だったのだが、それらが理想としていたものの達成は不可能であることを鋭く指摘してある。
第2次大戦後、またはソ連崩壊後になってようやく世間で言われだしたようなことが、第2次大戦中に確信的に述べられている。その洞察力に恐ろしささえ感じてしまう。
ローマ皇帝史において、タキトゥスが明らかにしたように、いかに善良、賢明、正義の人であろうとも、制御も制限もない無責任で定義不能な権力をもたされるならば、きわめて短時間のうちに、専横で残虐、非人道的で放埓な存在、すなわち暴君となる。(10頁)
軍国主義においては、国全体が一つの軍隊である。民間人はひとりもいない。腕に抱かれた赤ん坊さえ民間人ではない。(38頁)
ヒトラー、スターリン、毛沢東ら今世紀の悪の天才は、破壊はしたが、何も生み出さなかった。(46頁)
今日、先進国のなかで食糧を大量に輸入しているのは日本だけである。(46頁)
すでに先進社会は、18、19世紀はもちろん、今世紀初めの社会と比べても、一人ひとりの人間にとってはるかに競争的な社会になっている。かつては、自分の生まれた階層から脱出する機会はなかった。ほとんどの人間が仕事も地位も父親の後を継いだ。(55頁)
知識社会では、最大の投資は機会や道具ではない。知識労働者自身が所有する知識である。(58頁)
知識社会の本質とは、まさに、一人ひとりの人間が住むところ、行うこと、さらには所属先が流動的であることである。(62頁)
組織というものは、それ自身のために存在するのではない。それは手段である。それぞれ社会的な課題を担う社会のための機関である。生き物のように、自らの生存そのものを至上の目的とすることはできない。(72頁)
責任には必ず権限が伴う。逆にいえば、権限のあるところに責任がある。(77頁)
組織とそのマネジメントの力の基盤となりうるものは一つしかない。成果である。(84頁)
起業家社会では、成人後も、新しいことを一度ならず勉強することが常識となる。(91頁)
Part2 断絶後の経済
マクロ経済からグローバル経済への転換についての解説。
日本は、絹と茶を中心とする一次産品の輸出によって経済発展した。ドイツは、電子、化学、光学という当時のハイテクにとびつくことによって経済発展した。アメリカは、日本のしたこととドイツのしたことの両方によって経済を発展させた。(116頁)
Part3 模索する政治
第2次大戦以降の世界各国の政治思想についての解説。
ファシズムのルーツは、ダーウィンに始まる生物学的決定論にある。(135頁)
インフレは、年金に頼る退職者にとって最大の脅威である。(203頁)
Part4 問われる知識と教育
19世紀までの知識は、ただの自己満足に過ぎなかった。教育の場でも、知識の応用などまったく考えずに、ただ教育されていた。しかし、今日、知識とは成果を挙げる為の手段に移行している。教育の場では、応用分野別に知識は組織されるようになった。また、知識は社会に適用され仕事に使われてはじめて意味を持つ。ということが書いてあった。
応用分野別に知識が組織されるというのは、大学の学部、学科を見たとき、昔と比べて、表現は悪いが訳の分からない名前の学部学科が増えたということだろう。
自己実現の能力とは積み重ねによるものである。(230頁)
20世紀の大都市は、19世紀の偉大なイノベーション、すなわち、人を仕事の場に運ぶ能力によって実現された。汽車や電車、自転車や自動車が人を動かした。この20世紀型の大都市が、同じ20世紀に行われた偉大なイノベーション、すなわち仕事を人のいる場所に運ぶ能力によって大きく変えられる。これからは、人でなく思考や情報が動く。(240頁)
コンピュータは、17世紀末のドゥニ・パパンの時代に始まった物理的な世界という、分析的かつ概念的なプロセスの究極の表現だった。(244頁)
過去出版された【自己実現編】、【マネジメント編】と比べて、この【社会編】は、非常に重い内容となっている。政治の問題、教育の問題などがこの本の中心になっている。個人や企業の話ではなく、世界政治の問題となると、軽い気持ちでは読めない。
Part1 激動の転換期にある社会
Part1の初めの1章、2章はそれぞれ1942年、1939年に書かれたものである。にもかかわらずファシズム、マルクス主義について、その失敗の理由を解説してある。ナチスドイツとソ連は健在だったのだが、それらが理想としていたものの達成は不可能であることを鋭く指摘してある。
第2次大戦後、またはソ連崩壊後になってようやく世間で言われだしたようなことが、第2次大戦中に確信的に述べられている。その洞察力に恐ろしささえ感じてしまう。
ローマ皇帝史において、タキトゥスが明らかにしたように、いかに善良、賢明、正義の人であろうとも、制御も制限もない無責任で定義不能な権力をもたされるならば、きわめて短時間のうちに、専横で残虐、非人道的で放埓な存在、すなわち暴君となる。(10頁)
軍国主義においては、国全体が一つの軍隊である。民間人はひとりもいない。腕に抱かれた赤ん坊さえ民間人ではない。(38頁)
ヒトラー、スターリン、毛沢東ら今世紀の悪の天才は、破壊はしたが、何も生み出さなかった。(46頁)
今日、先進国のなかで食糧を大量に輸入しているのは日本だけである。(46頁)
すでに先進社会は、18、19世紀はもちろん、今世紀初めの社会と比べても、一人ひとりの人間にとってはるかに競争的な社会になっている。かつては、自分の生まれた階層から脱出する機会はなかった。ほとんどの人間が仕事も地位も父親の後を継いだ。(55頁)
知識社会では、最大の投資は機会や道具ではない。知識労働者自身が所有する知識である。(58頁)
知識社会の本質とは、まさに、一人ひとりの人間が住むところ、行うこと、さらには所属先が流動的であることである。(62頁)
組織というものは、それ自身のために存在するのではない。それは手段である。それぞれ社会的な課題を担う社会のための機関である。生き物のように、自らの生存そのものを至上の目的とすることはできない。(72頁)
責任には必ず権限が伴う。逆にいえば、権限のあるところに責任がある。(77頁)
組織とそのマネジメントの力の基盤となりうるものは一つしかない。成果である。(84頁)
起業家社会では、成人後も、新しいことを一度ならず勉強することが常識となる。(91頁)
Part2 断絶後の経済
マクロ経済からグローバル経済への転換についての解説。
日本は、絹と茶を中心とする一次産品の輸出によって経済発展した。ドイツは、電子、化学、光学という当時のハイテクにとびつくことによって経済発展した。アメリカは、日本のしたこととドイツのしたことの両方によって経済を発展させた。(116頁)
Part3 模索する政治
第2次大戦以降の世界各国の政治思想についての解説。
ファシズムのルーツは、ダーウィンに始まる生物学的決定論にある。(135頁)
インフレは、年金に頼る退職者にとって最大の脅威である。(203頁)
Part4 問われる知識と教育
19世紀までの知識は、ただの自己満足に過ぎなかった。教育の場でも、知識の応用などまったく考えずに、ただ教育されていた。しかし、今日、知識とは成果を挙げる為の手段に移行している。教育の場では、応用分野別に知識は組織されるようになった。また、知識は社会に適用され仕事に使われてはじめて意味を持つ。ということが書いてあった。
応用分野別に知識が組織されるというのは、大学の学部、学科を見たとき、昔と比べて、表現は悪いが訳の分からない名前の学部学科が増えたということだろう。
自己実現の能力とは積み重ねによるものである。(230頁)
20世紀の大都市は、19世紀の偉大なイノベーション、すなわち、人を仕事の場に運ぶ能力によって実現された。汽車や電車、自転車や自動車が人を動かした。この20世紀型の大都市が、同じ20世紀に行われた偉大なイノベーション、すなわち仕事を人のいる場所に運ぶ能力によって大きく変えられる。これからは、人でなく思考や情報が動く。(240頁)
コンピュータは、17世紀末のドゥニ・パパンの時代に始まった物理的な世界という、分析的かつ概念的なプロセスの究極の表現だった。(244頁)
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